共病のすすめ──フリーダ・カーロと病いを生きること|のしりこ

「闘病」という言葉がある。病いについて語った文章やエッセイを読むとき、この言葉をよく見かける。辞書で引いてみると、「病人が、治ろうとして病気とたたかうこと」と書かれている[★1]。けれど、なぜ闘わなければいけないのだろう。闘うのではなく、病いと共に生きる道もあるはずなのに。そうした違和感から、私は「共病」という言葉にたどり着いた。
さて、ここで、少し自己紹介をしようと思う。私はふだん「のしりこ」という名前で、主にnoteで自分の病いとその日々をエッセイにして書いている。私は、線維筋痛症と慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)[★2]という病気で、それらの影響により、ほとんど寝たきりで暮らしている。そのため、つねに全身に激痛と極度の疲労感があり、頭痛やめまいなども日常的に起こる。
と、いきなり病名と症状を並べられても、想像しにくいかもしれない。もっとわかりやすく言うならば、インフルエンザで高熱を出したときの感覚がずっと続いているようなものだ。そこに全身の激痛が加わるのが、いまの私の状態だ。どちらも、命に直結する病気ではないものの、原因不明の病いで、いまのところ決定的な治療法や特効薬はない。とくに研究が劇的に進まない限り、最期までこの症状と付き合うことになる。
そうした現実を抱えながら、私は病いと共にある日々を送っている。だから、私にとって病いとは、闘う相手ではなく、日々を共にするものなのだ。それをどのように語るかをずっと探し続けた結果、「共病」という言葉に出会ったのだ。
この文章では、まず病いの語りや闘病記、活動的な患者という言葉やそのイメージについて触れながら、共病という言葉の意味を整理していく。次に共病の表現者のモデルとしてメキシコの画家フリーダ・カーロを紹介する。そこから、なぜ病いを語ることが難しいのか、それでも語らずにはいられない理由を考える。そして最後に、共病として生きること、共病記を書くことの意味を探っていく。
では、なぜ私にとって、闘病ではなく共病という視点が重要なのか。まずは、闘病という言葉に違和感を抱くようになった原点の話から始めようと思う。
「闘病記」の歴史
「これも闘病記か。でも、そもそもなぜ、病いと闘わなくてはいけないのだろう」。
そんな疑問が私の中で生まれたのは、いまから10年ほど前、自分の病いを調べるために、当事者のブログなどを読み漁っていた頃だった。ようやく自分の症状を病いとして自覚し始めた当時の私にとって、病いについての他者の語りにふれることは、大きな支えとなっていた。しかし、やたらと目に飛び込んでくる、闘病記という言葉に違和感が残った。闘病が、どうも引っかかる。日々の症状と暮らすだけで精一杯なのに、なぜ病いと闘うのだろう。そして、いつまで私は病いと闘い続けなくてはいけないのだろう。そのようなざらついた気持ちを抱えたまま、あの頃の私は毎日を生きていた。
現在、私は病いのため、主に痛み止めの薬などを使いつつ、定期的に点滴を打って暮らしている。初期症状が出てからすでに20年近くが経っており、診断が下った頃には、私はほとんど寝たきりの状態になっていた。先ほども触れたが、これらの病いは命に関わるものではないが、いまのところ決定的な治療法はない。もちろん、対症療法や民間療法などを試そうと思えば、選択肢はいくつもある。けれども、病いそのものを根本から治す方法は見つかっていない。
だからこそ、どこかで妥協しなければ、終わりの見えない病いとの闘いに飲み込まれてしまう。また、病いを治すことを最優先にしてしまえば、私のような治療法がない慢性的な病いを抱えていると、最期まで治療のために振り回されることになる。私はそのように生きたくなかった。だが、もし私が、どんな手段でも試して、なんとしてでも病いを治したいと思うひとだったら、病いと闘う人生を選んだかもしれない。病いを治すことが人生の最優先事項となり、時間も体力もそのためだけにすべてを費やしていたかもしれない。もちろん、病気は治すべきだという考えや生き方もあれば、じっさいに治さないと命に関わる場合もあるだろう。病気の克服を人生の軸に据えることを否定するつもりはない。だけど、私はそこに自分の居場所を見出せなかった。残りの人生を病いのためだけに生きたくなかったのだ。
こうした違和感が積み重なり、私は次第に闘病から距離を置くようになった。だから、病いについて文章を書き始めたときも、闘病や闘病記という言葉を避けて表現するようになった。
では、そもそも、この闘病記という言葉はどこから生まれ、どのように広まっていったのだろうか。社会学者の門林道子『生きる力の源に』によると、 闘病という言葉が広く知られるようになったのは、1926(大正15)年、小酒井不木の著書『闘病術』の影響が大きいという。小酒井は医師でもあり、人気探偵小説家でもあり、結核患者でもあった。当時、日本は中国侵略を開始し、戦争とファシズムの時代へ突入していく時期だった。総力戦に勝つため、結核を撲滅しようとする国策と一致し、マスコミを通じて闘病という言葉が一般化していった[★3]。闘病は、そうした戦争の時代背景の中で形作られたのだった。だからなのか、いまでも映画やドラマで難病患者が描かれるとき、その物語は「病いと闘う」姿を強調することが多い。社会には依然として、そのような患者像を求める空気が根強くあるのだろう。
また、門林によると、闘病記という言葉が現在のような形で定着するのは、1960年代後半から70年代前半にかけてのことだという。門林は、がん闘病記を調査した結果、80年代に「告知」という出来事が大きなテーマとなり、その衝撃や苦悩が語られるようになったと記している。90年代には告知率が高まり、同年代の半ば以降、自分の病状すべてを知った上で闘うことを啓蒙する闘病記が増えていく。そして、2000年前後には、がんとの共生・共存の意識を明確にした闘病記が現れるようになったという[★4]。
闘病記は時代とともにその語られ方が変化していく。つまり、すでに20年以上前には、闘病記の語りは病いとの闘いから共生・共存へと変化していたのだった。
「闘病」から「共病」へ
だが、それでもなお、闘病という言葉は根強く残っている。病いに苦しみつつも乗り越えようとする姿は、読み手に希望を与える。「頑張っている患者」は社会の倫理観とも相性がよい。さらに、病いを語っても、その内容がどうであれ、結果的に闘病記として受け取られてしまうこともよくある。なぜなら、世の中で病いの語りといえば、闘病記のイメージが強いからだ。難病を描いた映画やドラマでよくある「病いと闘い、困難を乗り越える」作品は、わかりやすく感動的な物語として広まりやすい。また、慢性疾患を抱えるひとのインタビュー記事でも、本人が一度も闘病という言葉を使っていないのに、見出しや紹介文にその言葉が置かれることもある。それほどまでに、この言葉は社会の中で強く作用している。
とくに、線維筋痛症や慢性疲労症候群のような病いは、診断されても確固とした病気として認められにくく、患者としての地位が不安定だ。そのため、病気に関する情報を集め、同じ病いを持つひとや患者会と繋がり、時には制度や福祉サービスの受給をめぐって、行政や政治家に働きかけるなどの行動を求められることが多い。そうして、闘病として描かれやすい「活動的な患者」となることで、患者であることの正当性を得ることを余儀なくされてしまう[★5]。じっさい、私はそうしたひとたちをネット上でよく見かける。彼らは医学論文を読み、最新情報を追い、SNSやYouTubeなどで積極的に発信する。社会運動家のように政治的な働きかけを前面に出すひともいれば、政治色をほとんど出さず、インフルエンサーのようにポジティブなメッセージを中心に発信するひともいる。彼らは、現状を改善するために時間や労力を惜しまない。少しでも病気を良くするために、人生を賭けている人たちなのだ。だからか、メディアが彼らを取り上げるときは、病いと懸命に闘う物語か、感動的な物語として描かれることが多く、その姿は「典型的な患者像」として固定されやすい。
もちろん、彼らのような存在は重要だ。また、治療や回復を否定するわけではない。しかし、誰もがそうなれるわけではない。活動的な患者になりたくないひともいるし、ただ日々を生きるだけで精一杯なひともいる。本来、病いとどう向き合うかは、ひとりひとり異なるはずだ。私は、活動家のように社会運動をするのではなく、創作をする人間として、別の方法で病いと向き合いたかった。そうして、考え続けた結果、創作を通して病いを表現しながら向き合うこと、それが私のやり方であり、語り方であることに気づいた。
だから、私は闘うのではない、別の語り方を探すことにした。そうやって、私は何年も試行錯誤を重ね、数年前から「病気と共に生きること」をテーマに病いを語るようになった。けれども、これを名指す言葉はなかった。どう表そうかと悩んでいたある日、ふと「共病」という言葉が浮かんできた。調べてみると、共病という言葉自体は、すでに使われていた。たとえば、和田秀樹『80歳の壁』(幻冬舎新書、2022年)や、映画化された住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉社、2015年)に、この言葉が出てくる。だが、どちらも、私が思う共病ではなかった。
では、私が考える共病/共病記とはいったい何なのか。
共病とは、病いと共にありながら、主体的に、自分として生きること。病いと闘うのではなく、克服することでもなく、病いに飲み込まれることでもない。患者という役割にとらわれず、病いと距離を取りながら、不確かで揺らぐ日々を生きること。
そして、共病記とは、病いと共に生きる共病の語りを記録したもの。共病記という言葉は、病いと共に生きることを語るために、私が使っているものだ。この言葉は辞書にも載っておらず、どこかの有名な作品で定義されているわけでもない。私が調べた限りでは、個人のブログなどで断片的に使われている例はあったものの、その多くは闘病の語りに近い意味合いで用いられていた。
とはいえ、じっさいに病いと共に生きる日々とはどのようなものか、イメージが浮かばないひともいるかもしれない。そこで、私に共病のあり方を照らし出してくれたメキシコの画家のフリーダ・カーロについて語ろうと思う。フリーダは、生涯にわたり、身体的な痛みと共に生きていた。そして、自らの痛みを芸術にし、表現し続けた。そう、フリーダは、まさに共病の表現者だったのだ。
共病の表現者、フリーダ・カーロ
数年前、私は『グレート・ダイヤリーズ 世界の偉大な日記図鑑』という書籍を手に取った。歴史上の著名人などの日記・書簡を紹介した本である。ある日、それを読んでいたとき、とあるページで私は立ち止まった。そこには、血と痛みを感じさせる赤い背景に描かれた足の絵があり、こんな言葉が添えられていた。
飛ぶ翼を持っていたなら、足など必要ない[★6]。
それは、フリーダ・カーロという画家が、晩年、壊疽の悪化によって右足を切断したころ、日記に描いた絵だった。そこには、フリーダの強さと弱さが同時に現れているように感じられ、それでも痛みと共存していく姿が表現されているように思えた。あまりに強烈だった。痛みに耐えながら、なんとか描こうとするその筆遣いが、私の胸に突き刺さる。
おそらく、ひとによっては、この絵は痛々しく見えるのかもしれない。けれども、私は「私の痛みを代わりに描いてくれている」と感じた。そう、私の身体には、全身にわたる痛みがつねにある。この痛みは一生、私が孤独に抱えていくものだ。しかし、そのページに載っていたフリーダの絵には、私と似たような痛みが表現されていた。その瞬間、私は泣いてしまった。「私は一人じゃない」そのときなぜだかそんな気がしたのだ。
20世紀前半のメキシコで活躍した画家のフリーダ・カーロ(1907-1954年)は、まさに痛みと共に生きる人生だった。6歳でポリオにかかり、18歳のときに交通事故で生死の境目をさまよう重傷を負った。フリーダの負った傷は、脊髄と骨盤がそれぞれ3カ所、右足が12カ所、鉄のパイプが腹部から子宮を貫通するというすさまじいものだった。その後、フリーダは背骨と右足の痛みに絶えず悩まされるようになった。また、何度も入退院を繰り返し、生涯で30数回の手術を受けることとなる。
それでも、フリーダは病いに飲み込まれることなく、痛みを絵に描き続けた。もちろん、フリーダにも患者としての姿もあった。痛みを何とかしたくて、医学の知識を徹底的に調べたり、当時の名医たちを回り診てもらったりした時期もある。だが、フリーダが選んだのは、痛みと闘って克服する道ではなく、痛みを抱えながらも描いて生きる、痛みとの共存の道だった。
フリーダの絵の多くは、自画像であり、その多くに痛みが描き込まれている。フリーダは、自身の痛みに向き合い、見つめ、描いていた。絵を描き続けるために、何度も自分の痛みと向き合ったに違いない。けれど、それは大変な作業だったはずだ。痛みは意識すればするほど、強く感じてしまう。私も自分の病いについて文章を書いていると、痛みを意識してしまい、より鋭く痛みを感じてしまう。通常、ひとは痛みとは距離を置こうとする。たとえば、お腹が痛いとき、その痛みのことばかり考えると、余計に痛みを感じると思う。だから、違うことをして、意識を逸らし、痛みから一時的に離れようとする。ところが、フリーダは、痛みと真っ直ぐ向き合い、その痛みそのものを絵に描き続けたのだ。フリーダにとって、避けられない痛みだったからこそ、自分の痛みを描かずにはいられなかったのではないだろうか。
私がフリーダの作品でとくに印象に残るもののひとつが、1944年に描かれた《折れた背骨》だ。そこには、コルセットを巻き、全身のあちこちに釘を刺され、涙を流しながらも苦しみに耐えて立つフリーダが描かれている。この作品が描かれた頃、フリーダの病状は悪化していた。銅製のコルセット型のギプスを装着したままでの絶対安静が必要となった。また、コルセットなしには、座ることも立つこともできなくなってしまった。そのような状況で描かれた《折れた背骨》では、背骨が崩れかけた柱として表現されている。これは誇張ではなく、フリーダがそのとき感じていた痛みを描いているように思う。
そして、もうひとつ、私が個人的にとても惹かれる作品がある。それは、《折れた背骨》の1年後の1945年に描かれた《希望もなく》だ。ベッドに横たわるフリーダの唇には、巨大な漏斗管が取り付けられている。それを通して、豚や七面鳥や魚など、不気味な食物が無理やり流し込まれている。フリーダは、嫌そうな表情をしつつ、こちらを見て泣いている。一説によると、手術後の回復期に描いたもので、担当医が「さあ、何を食べてもいいですよ」と嬉しそうに申し渡したときの不快感を絵にしたのだという。フリーダがあまりにも痩せていたので、食べ物をピューレにして2時間ごとに食べさせていたらしい。
食べたくない。でも、食べなければ生きられない。そのような状況は、病いのせいで食欲を失いがちになり、食べることが苦手になってしまった私と重なる。絵の中でのフリーダが、私の「食べたくないけど、食べなければ生きていけない」という感覚を描いてくれているように思えて、この絵を見ると励まされるのだ。
また、フリーダは、身体的な痛みだけではなく、さまざまな痛みを絵に表現している。それは、精神的な痛み、女性であることから生じる痛み、そして、夫のディエゴ・リベラとの関係によって生じた愛の痛みだった。たとえば、1935年に描かれた《ちょっとした刺し傷》という、血がついたナイフを持つ男性の前に、若い女性が刺し傷だらけで横たわっている絵がある。これは、当時のディエゴとの関係で悩むフリーダの痛みを表現したものだ。ディエゴは当時メキシコで著名な壁画家であり、影響力のある人物だった。フリーダは彼を深く愛し、また芸術家としても尊敬していた。だが、ディエゴは幾度となく、浮気を繰り返した。その浮気相手の中には、なんとフリーダの妹も含まれていた。
愛しているからこそ、深く傷つく。フリーダは一度ディエゴと離婚するが、のちに再婚している。二人は互いに傷つけ合いながらも、互いに相手を必要とし、離れられなかった。その複雑な愛の痛みもまた、フリーダの絵の中には込められている。
さらに、晩年に書かれたフリーダの日記は、共病という視点から見てみると、まさに共病記としても読める。日記には、このように綴られている。
ギプス用のコルセットをしているため、ひどく煩わしい。けれど、そのおかげで、背骨の回復を感じることができる。痛みはない。ただ、ひどい…疲れ。そして、当然ながら、何回にもわたる絶望。どんな言葉でも言い表せない。絶望。それでも、私は生きたい。もう私は絵を描き始めた[★7]。
この頃のフリーダの病状は、すでにかなり悪化していた。その後、フリーダは、ほとんど寝たきりの状態で暮らすようになる。それでも、フリーダは最期まで絵を描き続けた[★8]。フリーダの作品には、痛みや孤独、愛や怒り、希望や絶望が混ざり合っている。たしかに、フリーダの人生は、壮絶な困難に立ち向かい、乗り越えようとした闘病の物語として語ることもできるだろう。けれど、私はそうした語りに違和感を覚える。なぜなら、フリーダは病いに勝ったわけでもなく、克服したわけでもないからだ。ただ、病いと共にあり続けた。語ることが難しい痛みや絶望を、フリーダは絵に変えて表現し続けた。身体と心の痛みに向き合いながら、それらを作品に刻み込んだのだ。痛みと共に生きたその姿は、「病いの中で、どう生きるか」と、いまも私たちに問いかけてくる。
では、私たちはその問いに、どのように向き合えばいいのだろうか。語ることが困難でありながら、語らざるをえないとき、どのようにして病いを語ればいいのか。フリーダが作品で語ったように、自らの方法で「語られにくいもの」を表現する道を探っていくしかないのかもしれない。
なぜ病いを語ることは難しいのか
病いには特有の「語りにくさ」がある。子どもの頃から痛みや倦怠感などの症状が日常の一部だった私にとって、痛みを言葉にすることは簡単なことではなかった。「どうしたの? 痛いの?」と、母に体調を尋ねられるたび、私はどう返せばよいのか、いつも迷っていた。また、時々、原因不明の発熱で寝込むことがあったものの、病院へ行っても、「異常はありません」と言われていた。だから私は、「きっと、ひとは皆、多少の不調を抱えながら、我慢して耐えて生きているのだろう」と思い込んでいた。そのため、小児科の診察室で「どのくらい痛いの?」と質問されても、眠れないほどの痛みでも「ちょっと痛いです」と、過小に表現して答えていた。そんなこともあり、大人になっても、自分の身体にある症状を積極的に訴えることもなかった。いや、正確に言えば、語り方自体がわからなかったのだ。
しかし、その思い込みと控えめな語りが、病いの発見と診断を遅らせた。異常に気づかず、語れずにいたことの代償を、私はこの身体で払うことになった。そうして、30歳の頃、ついに身体が限界を迎え、ほとんど寝たきりの生活に突入し、ようやくはじめてそれが異常であることに気づいたのだ。
けれども、なぜ、痛みは他者に語ることが難しいのか。それは、痛みは感覚であり、主観であるからだ。それゆえに、他者と比較することも難しい。たとえ目に見える傷であっても、その傷による痛みの感覚は本人にしかわからない。その難しさを、私は病院へ行くたびに実感する。診察のとき、「10段階で言うと、どのくらい痛いですか?」と聞かれても、私はいつも答えに困っていた。私の「7」は、他人の「7」と同じとは限らない。誰かが「3」と感じる程度の痛みを、私は「7」と受け取っているのかもしれない。さらに、ずっと身体のあちこちに痛みがある状態で生きていると、「ふつう」の状態さえ、わからなくなってくる。つねに何らかの症状があると、どこまでが通常で、どこからが異常なのか、その境界があいまいになる。そうした症状を相手に伝わるように語るのは、なおさら難しい。だが、語らなければ、その痛みは存在しないものになってしまう。だから、私は語るしかないのだ。
しかしながら、たとえ症状を語ったとしても、それが医学的に認められるとはかぎらない。画像検査や血液検査などで異常が見つからなければ、その症状は存在しないものとして扱われてしまうことすらある。
医療社会学には「論争中の病い」という用語がある。社会学者の野島那津子『診断の社会学』によれば、画像検査や血液検査で異常が見つからず、病気であるという客観的な証拠が見当たらないため、医学的に認められていない病いを指す[★9]。こうした病いは、じっさいに存在するのかどうかをめぐって、医療者同士や医療者と患者、さらには患者の周囲や世論の中でも意見が分かれ、しばしば論争が起こる。私の線維筋痛症や慢性疲労症候群も、この「論争中の病い」に含まれる。
そうした事情もあり、語っても信じてもらえないかもしれないと思うことが時々ある。現に、母に介助されながら車いすで診察を受けたにもかかわらず、ある病院の医者には、私がほとんど寝たきりの状態だといくら語っても、最後まで病気だと信じてもらえなかった。そんなことが起きると、ひとに病いを語ることが嫌になり、挫けそうになる。けれど、それでも語らなければ、この痛みは存在しないものとされてしまう。だからこそ、病いを語ることは、生きるために欠かせない行為となるのだ。
そして、私には、もうひとつ語らざるをえない理由がある。それは、重い病いであればあるほど、病いになることで、強制的に生活そのものが変化し、かつて描いた人生設計がもはや役に立たなくなるからだ。病いを抱えた瞬間から、それまでの人生で培ってきた生きる術が使えなくなってしまう。だから、病いと生きるためには、新しい人生の地図を作らなくてはならなくなる。そうして、その過程そのものが、病いを語るキッカケとなるのだ。
病いになる感覚を、医師であり医療ジャーナリストのリサ・サンダースは『患者はだれでも物語る』で、こう表現している。
病気になるという経験は、ある日目が覚めたら外国にいるというのに似ている。これまでよく知っていた人生が中断され、自分がもう一つの、思いもかけない見知らぬ世界を旅しているのだ[★10]。
サンダースが語るように、病いになると、見知らぬ新たな世界へ強制的にワープさせられ、これまでの人生の目的や地図が通用しなくなる。
10年以上前、突然の高熱で倒れたあの日が、まさにそうだった。あの日を境に、私の疲労感は消えることなく、つねに症状として付き纏うようになった。その後、線維筋痛症や慢性疲労症候群という病気があることを知り、病院を探し、通院するようになった。そのあいだ、ものすごい速度で生活が変わっていった。それにより、これまでの人生の地図が使えなくなり、私は見知らぬ世界で新たに生きていくことになった。そうして、私は新たな地図を描き始めたのだった。しかし、その作業は容易ではなかった。数年後、30歳の頃の私は、ほとんど寝たきりの生活になっていた。このとき、ようやく私は病いを語る言葉を見つけたような気がした。そう、いま思えば、そこから私の共病が始まった。そして、その共病の日々の延長線上に、いまの私がいるのだ。
書くことで、私はここにいる
気がつけば、私は病いのある人生を歩んでいた。望んでそうなったわけではない。「病気になってよかった」と語るひともいるが、私はそう思えない。ならないほうがいいに決まっている。けれど、現実として、私はこの身体で生きている。もう何年もほとんど寝たきりの生活であり、痛みや倦怠感などの症状と共に暮らしている。これは、私だけの問題ではない。誰しもが慢性的な病いや不調と付き合う可能性がある。歳を取れば、その可能性がより高くなる。そのため、病いと長く付き合うことも、決して珍しいことではない。
そして、いまも、私はその病いの中でこの文章を打っている。そうした状況だからか、「どうしてそこまでして書くのか」と言われることがある。そのときは「書くことが好きだから」とぼやかしながら答えているものの、ほんとうの私の答えはこうだ。私にとって、書くことは生きることに繋がっている。ほとんど寝たきりという閉ざされた世界で、インターネットなどを通して世の中に向けて言葉を紡ぐことで、他者を想像し、社会と繋がることができる。そうやって書くことで、ケアされてばかりの存在ではなく、何かを生み出し誰かをケアする存在にやっとなれる。それは大きな喜びであり、救いでもあるのだ。そして、それこそが、私にとってこの世界を生きるためのひとつの方法なのだ。
病いで思うように動けなくて落ち込んでいるとき、私はフリーダ・カーロのことを思い出す。フリーダは夫のディエゴと同じく、共産党員だった。また、ディエゴはメキシコ壁画運動の代表格であり、社会運動として芸術を用いていた。美術史家の堀尾眞紀子『フリーダ・カーロ作品集』によると、フリーダは「ディエゴの絵は壁画だけど、私の絵は自分のことだから社会に何の貢献もしていない」と嘆いていたという[★11]。日記にも、そのような悩みが綴られている。
じっさい、フリーダが描き続けたのは、自らの痛みや内面を表した作品だった。ディエゴがその時代を描いたのに対し、フリーダはより普遍的なものを表現していたように思う。いまではディエゴよりもフリーダのほうが、世界中に広く知られている。フリーダの作品が時代を超えてなお、多くのひとの心を惹きつけるのは、痛みという誰もが無関係ではいられないテーマを描いたからであろう。
だから、私もフリーダに惹かれるのだ。フリーダの痛みの表現は、病いと闘うのではなく、病いと共に生きた者にしか描けないものだった。そう、フリーダはまさに共病を作品で表現した人物だったのだ。
フリーダが残した言葉は、私の心に深く響く。フリーダの日記には、こう綴られている。
希望の樹よ、しっかりと立て[★12]。
フリーダは、痛みの中で自らを奮い立たせ、描き続けた。私もまた、書くことで自分を支えている。病いのある中で、生きるためにも私は書き続ける。
共病記は、きっと誰かの心に届く。そう信じながら、私はこれを書いている。ここに私がいるということを、誰かに伝えるために。そして、かつての私のように悩んでいる誰かのために。語ることは、誰かの力になれる。そう信じて。
それに、私にはまだまだ書きたいことがたくさんある。本作りなどの創作活動もしたいし、カルチャーについても言葉にしたいし、愛する猫と暮らす日常も記録したい。患者としてではなく、一人の人間として生きて、書きたいのだ。だから、私の共病記は、まだ終わらない。人生は病いだけではない。この世界の人間として共に生きているからこそ、明日のことを考える。そうして、私は今日も書いて生きていく。
★1 『三省堂国語辞典 第8版』、三省堂、2021年。
★2 近年、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)のことを「ME/CFS」と表記する傾向にあるが、当事者の著作では「慢性疲労症候群」の表記もまだ多く、また症状が伝わりやすいと考えているため、今回は「慢性疲労症候群」を採用することにした。
★3 門林道子『生きる力の源に──がん闘病記の社会学』、青海社、2011年、259頁。
★4 同書、51─53頁。
★5 野島那津子『診断の社会学──「論争中の病」を患うということ』、慶應義塾大学出版会、2021年、107頁。
★6 DK社編『グレート・ダイヤリーズ 世界の偉大な日記図鑑』、中森拓也訳、東京美術、2022年、230頁。
★7 フリーダ・カーロ『フリーダ・カーロの日記──新たなまなざし』、星野由美、細野豊訳、冨山房インターナショナル、2023年、142頁。
★8 ヘイデン・エレーラ『フリーダ・カーロ──生涯と芸術』、野田隆、有馬郁子訳、晶文社、1988年、407頁。
★9 野島那津子『診断の社会学』、25-26頁。
★10 リサ・サンダース『患者はだれでも物語る』、塚本明子訳、ゆみる出版、2012年、98頁。
★11 堀尾眞紀子『フリーダ・カーロ作品集』、東京美術、2024年、70頁。
★12 カーロ『フリーダ・カーロの日記』、125頁。



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