共病のすすめ──フリーダ・カーロと病いを生きること|のしりこ

「闘病」という言葉がある。病いについて語った文章やエッセイを読むとき、この言葉をよく見かける。辞書で引いてみると、「病人が、治ろうとして病気とたたかうこと」と書かれている[★1]。けれど、なぜ闘わなければいけないのだろう。闘うのではなく、病いと共に生きる道もあるはずなのに。そうした違和感から、私は「共病」という言葉にたどり着いた。
さて、ここで、少し自己紹介をしようと思う。私はふだん「のしりこ」という名前で、主にnoteで自分の病いとその日々をエッセイにして書いている。私は、線維筋痛症と慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)[★2]という病気で、それらの影響により、ほとんど寝たきりで暮らしている。そのため、つねに全身に激痛と極度の疲労感があり、頭痛やめまいなども日常的に起こる。
と、いきなり病名と症状を並べられても、想像しにくいかもしれない。もっとわかりやすく言うならば、インフルエンザで高熱を出したときの感覚がずっと続いているようなものだ。そこに全身の激痛が加わるのが、いまの私の状態だ。どちらも、命に直結する病気ではないものの、原因不明の病いで、いまのところ決定的な治療法や特効薬はない。とくに研究が劇的に進まない限り、最期までこの症状と付き合うことになる。
そうした現実を抱えながら、私は病いと共にある日々を送っている。だから、私にとって病いとは、闘う相手ではなく、日々を共にするものなのだ。それをどのように語るかをずっと探し続けた結果、「共病」という言葉に出会ったのだ。
この文章では、まず病いの語りや闘病記、活動的な患者という言葉やそのイメージについて触れながら、共病という言葉の意味を整理していく。次に共病の表現者のモデルとしてメキシコの画家フリーダ・カーロを紹介する。そこから、なぜ病いを語ることが難しいのか、それでも語らずにはいられない理由を考える。そして最後に、共病として生きること、共病記を書くことの意味を探っていく。
では、なぜ私にとって、闘病ではなく共病という視点が重要なのか。まずは、闘病という言葉に違和感を抱くようになった原点の話から始めようと思う。
「闘病記」の歴史
「これも闘病記か。でも、そもそもなぜ、病いと闘わなくてはいけないのだろう」。
そんな疑問が私の中で生まれたのは、いまから10年ほど前、自分の病いを調べるために、当事者のブログなどを読み漁っていた頃だった。ようやく自分の症状を病いとして自覚し始めた当時の私にとって、病いについての他者の語りにふれることは、大きな支えとなっていた。しかし、やたらと目に飛び込んでくる、闘病記という言葉に違和感が残った。闘病が、どうも引っかかる。日々の症状と暮らすだけで精一杯なのに、なぜ病いと闘うのだろう。そして、いつまで私は病いと闘い続けなくてはいけないのだろう。そのようなざらついた気持ちを抱えたまま、あの頃の私は毎日を生きていた。
現在、私は病いのため、主に痛み止めの薬などを使いつつ、定期的に点滴を打って暮らしている。初期症状が出てからすでに20年近くが経っており、診断が下った頃には、私はほとんど寝たきりの状態になっていた。先ほども触れたが、これらの病いは命に関わるものではないが、いまのところ決定的な治療法はない。もちろん、対症療法や民間療法などを試そうと思えば、選択肢はいくつもある。けれども、病いそのものを根本から治す方法は見つかっていない。
だからこそ、どこかで妥協しなければ、終わりの見えない病いとの闘いに飲み込まれてしまう。また、病いを治すことを最優先にしてしまえば、私のような治療法がない慢性的な病いを抱えていると、最期まで治療のために振り回されることになる。私はそのように生きたくなかった。だが、もし私が、どんな手段でも試して、なんとしてでも病いを治したいと思うひとだったら、病いと闘う人生を選んだかもしれない。病いを治すことが人生の最優先事項となり、時間も体力もそのためだけにすべてを費やしていたかもしれない。もちろん、病気は治すべきだという考えや生き方もあれば、じっさいに治さないと命に関わる場合もあるだろう。病気の克服を人生の軸に据えることを否定するつもりはない。だけど、私はそこに自分の居場所を見出せなかった。残りの人生を病いのためだけに生きたくなかったのだ。



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