聖なるルーシと狂った夢──戦時下のロシアから|大崎果歩

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2026年3月13日刊行『ゲンロンy』


 モスクワではとうに初雪が降り、寒さも厳しい初冬のことだった。市内を移動しようとタクシーに乗ると、中年の運転手がさっそく話しかけてきた。モスクワの運転手はよくしゃべる。「どこの国から来たのか?」「働いているのか? 留学か?」

 タクシーでのおしゃべりは、街で働く見知らぬ人の声を聞ける貴重な機会だ。

 私が「日本から来て、大学院でロシアの言葉と文化を学んでいる」と答えると、運転手は突如、妙な話を語り出した。

「あと10年もすればな、世界中の国境は消滅して、世界中の人々はお互い愛しあって、抱擁しあって、踊って、そうして世界中がロシア語を話すようになって、日本はロシアの領土になるんだ。だからあんたはロシア語を勉強していて正解だったな!」

 なんという未来! 博愛的なユートピアの到来を予言したかと思ったら、話はシームレスにロシアの世界支配へと飛んでいった。

 運転手は上機嫌で、悪意は全然なさそうだった。

 2021年11月、ウクライナ侵攻が始まる3カ月前のことだった。

コロナ禍と戦争下のロシア留学

 私は4年間モスクワに住んでいた。期間は、2017年秋から1年間、2019年秋から1年間、そして2021年10月から2023年12月。目的は、ロシアのキリスト教を学ぶことだった。

 日本でキリスト教といえばカトリックかプロテスタントがまず思い浮かぶだろう。だが、ロシアでの主流は11世紀にカトリックと袂を分かった東方正教だ。私が留学先に選んだのは、聖チーホン正教人文大学という、モスクワの中心部にある正教研究が活発な大学だった。

 なぜロシア留学なのか。そもそもは、大学でソ連の思想と歴史を学びたくて、第二外国語としてロシア語を選んだのが始まりだった。そこからドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学に接し、その思想の根底にあるキリスト教に惹かれるようになった。たとえば、ロシア文学には多様なだめ人間が登場する。ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる、極貧のなか娘が家族のために身体を売って稼いだ金まで飲み尽くすアルコール中毒の父親はその筆頭である。そんな人間の弱さが、神の大いなる憐れみのなかで逆説的に光る。私は、その魅力的な思想の源をもっと知りたいと思ったのだ。

 ロシアのキリスト教とはどういうものなのか? 本で知るだけでなく、実際にその環境に飛び込んで、ロシアの正教徒の生活や文化、価値観を学んでみたい。そんな願いから、モスクワへ留学したのである。

 2017年に留学を始めたころ、モスクワの発展は勢いに満ちていた。しかし、2020年春にコロナ禍が世界を襲い、生活は一変した。追い打ちをかけるように、2022年2月にはロシアのウクライナ侵攻が始まった。留学を決めた当初には想像もしなかった状況に直面することとなった。

大崎果歩

92年生。東京大学大学院博士課程満期退学。モスクワの聖チーホン正教人文大学への留学を経て、現在は上智大学神学研究科などで非常勤講師。
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